2008年5月28日
犬への「愛」は「血圧」を下げる..........のか???!!!
犬への「愛」は「血圧」を下げる..........?!
第1章 オヤジ、犬を愛す
第2章 「おかえり」と喜んでくれるのはオマエだけ
第3章 オレもオマエもくさい者同士
第4章 オレに似ているうちの犬
第5章 オヤジの悩みの相談相手
第6章 家長制度を復活させろ!
第7章 犬とオヤジの親子ごっこ
第8章 犬はオヤジを救う
目次見ているだけで、泣けてくるぜ。
まがうかたない良書であろう.........かどうかは知らないが、ぜひとも読んでみたい!!!
オレの血圧も下がるのか???!!!
「犬への愛は血圧を下げる」 おたわ史絵
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2008年4月18日
狂犬病再侵入
いわゆる人獣共通感染症については、犬と暮らす身であれば、みな少なからず関心を持っているだろう。
ていうか、鳥インフルエンザなどは、まさに国民全員にとっての、今そこにある危機ですからね。食料備蓄とか、真剣に考えておかなければいけないワケです。
この本の作者は、そういったズーノーシスに関する著作を何冊も手がけており、本作はその中でも近年真剣に危惧されている狂犬病の日本国内での再発をテーマにしたものである。
恐怖感をあおり立てるような構成になっていたり、リアルなのか何なのかよくわからない「狂犬病が国内に再侵入するシミュレーション」とかに多くのページが割かれているわりには、「ではどうすれば国内への狂犬病再侵入を防げるのか?」という肝心の部分はあまり具体的ではなく、ちょっと物足りなかった。残念。
とはいえ、狂犬病の歴史や(忘れ去られつつある)防疫対策の重要性を再確認するという観点からは貴重な一冊だとは思います。
狂犬病は別段犬だけの病気ではないが、ヒトの狂犬病感染の原因の多くは犬であることから、犬の集団のワクチン接種率をある割合以上に高めることが狂犬病の征圧にもっとも効果的である、という理屈はもちろんわかる。狂犬病予防法に基づく徹底した対策(要するにワクチン接種の義務化と野犬や飼い主不明犬の積極的な駆除)及び関係機関の必死の努力によって、日本が長年に渡って狂犬病清浄国として平和に過ごしてこられたのだということも理解しているつもりだ。
しかし、法律で定められた全頭接種の原則(少なくても拡散防止には7〜80%の接種が必要という厚生労働省の主張)と現在の実際の接種率とのあまりの乖離(にもかかわらず厚生労働省は特別な対策を講じない)という矛盾。ワクチン価格や免疫持続性の改善など、飼い主や犬の負担を可能な限り軽減していこうという努力や姿勢がまったくと言っていいほどみられないという現実。
要するにさ〜、何とか特定財源の「暫定税率」と同じで、もともと意義も必要もあったんだろうし、今もあるのかもしれないけど、実体としてはいつのまにか誰かさんの既得権益になっちゃってて、現在では本来の目的を果たすどころか意味のない負担だけを強いるものになっちゃってるんじゃないの〜??!!
獣医さんだか製薬会社だか誰かさんだかの春の定例ボーナスになっちゃってるから、今さら変えられないんじゃないの〜??!!
とかいう勘ぐりも時々したくなる、というのが多くの飼い主の本音だと思うのだ。
この本では、そういった飼い主の気持ちや犬をめぐる環境の変化に理解を示し、日本において真に有効な防疫対策の再考と確立の重要性を指摘している。
もちろんその点は共感できるのだが、内容的にちょっと尻すぼみ感は否めなかったというのが正直な感想です。
ともかく、法律は法律だし、致死率100%というのはいかにもコワイから、もちろんワクチンは接種させるんですけどね。
今年もすでに、ブチュッとやってきましたよん。
皆様も忘れずに!
狂犬病再侵入―日本国内における感染と発症のシミュレーション
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2008年4月13日
犬は犬、我は我にて
名前は知っていて気にはなってはいるがその著作はまだ読んだことがない、という人は大勢いる。
そして、いざ読んでみたらやはり素晴らしかった、こんなことならもっと早く手にとればよかった........あぁ損した気分、というパターンが最近多い。
去年は、串田孫一。
今年は平岩米吉がそんな存在になりそう。
「人イヌに会う」のローレンツとほぼ同時代に、こんなスゴイ人が日本にはいたんですね。
犬科動物の習性を研究するために、荏原郡碑衾町(現在の自由が丘とのことだが、当時は南アルプス・赤石岳も見渡せた高台だったという!!!)の自宅敷地内で犬はおろか狼・ジャッカル・ハイエナなど多種多数の動物と共に暮らした、犬と狼(及び猫)の研究家。
また、雑誌「動物文学」を創刊し、シートンなど動物をテーマとした幅広い作家や作品を日本に紹介したのは彼の功績だという。ぼくが犬系の動物が好きなのは、間違いなく子供の頃に読んだ「狼王ロボ」の影響であるからして、自由が丘には足を向けて寝られないのである。
そして、愛犬の死を契機として「フィラリア研究会」を設立。資金を集めて東大教授板垣四郎博士に研究を委嘱しフィラリア治療の道を開いた、というではないか。もしこの人がいなかったら、日本でフィラリア駆虫薬(とその知識)が一般化されるのはもっとずっと後のことになっていたかもしれない。であるからして、全愛犬家は自由が丘には足を向けて寝られないのであ〜る。
「もし、彼等の内に潜むものが単にこの種の人間の保有していぬ、あるいは亡失してしまっている能力というのであるならば、私はとくにここで彼等の精神生活などを云々する気にはならなかったであろう。なぜならば、それはいかに優れていようとも、明らかに動物の英知であり、それ以上のものではないからである。
しかし、静かに彼等の生活を眺めている時私はしばしば驚くべき厳かなるものに触れ、思わぬ感動を受けるのである。それはある意味においては人間が思索や文化の力によって到達しようとしている未知の世界を暗示しているものといってもよいかもしれぬ。のみならず、それは特殊の人目を聳動さしめるような事がらとともに起こるのではなく、実に平々凡々な日常茶飯の彼等の生活の中にも閃いているのである。ただ彼等があまりに近く我々の身辺に住み我々の耳目に馴れてしまっているうえに、我々はまた、人の世の汚濁になじんで、他を顧る暇なく、多くは彼等の中の光を見落としてしまっているのに他ならぬのだ。」
「一万二千年の昔、われわれの祖先は共同の幸福のために、彼等犬族と固い同盟を結んだ。そして、彼等の助けによって初めて狩猟より牧畜へと文化の階段を上り出したのであった。今や人類は世界を掌握し、全生物に号令する輝かしい位置を築き上げた。が、不幸にしてもっとも重大なものを失ってしまった。すなわち良心を!
しかし、犬は、今なお、人間が文化の名のもとに自ら亡してしまったところのものを顕著にそのうちに蔵している。そして、無言のうちに、われわれの未来に何ものかを指示しているのである。」
「犬と狼」平岩米吉 -犬の英知-より
冷静な科学者としての視点と共に、純粋な愛犬家として、愛情と感嘆に満ちた視線をもって犬を観察していることが、時折文章の端々に現れていて、そこがとてもスキです。
そして、彼のその犬を中心とした動物への愛情が、幼少期のどのような環境(娘さんの回顧録を読むと、まさに小説やテレビドラマのような半生です)から育まれてきたものなのかということを考えると、実に切ない気分になる。
出版当時、愛犬家の間で大変な反響を呼んだという歌集「犬の歌」(スゴク欲しいんだけど、すでに絶版のようだ.......)には、こんな一首があるそうだ。
「犬は犬、我は我にて果つべきを命触りつつ睦ぶかなしさ」
平岩米吉
大戦中は愛犬と共に疎開し、時には狼を連れて銀座を散歩していたという、稀代の愛犬家・平岩米吉。
彼の命日は、犬狼忌と呼ばれているらしい。
彼とその家族が犬達と暮らした(熊を飼っていた時期もある!!!)「白日荘」は、現在も自由が丘でその歴史を刻んでいる。
愛犬家は、足を向けて寝てはいけない!!!
平岩米吉 略歴
平岩米吉
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2008年2月11日
動物園にできること
何週間か前の話だが、何十年かぶりに上野動物園に行った。
正直に言って、動物園は嫌いではない。
珍しい動物が沢山いるし、のんびりとした空気も心地よい。
でも、「動物園が好き」と胸を張って宣言することは、どうしても躊躇してしまう。
どう見ても神経症傾向と思われる反復行動を繰り返したり、明らかに肉体的な不調を抱えた動物たちを、少なからず目にするからだ。
本来はどこか別の場所で暮らしているはずの野生動物を(経緯はともかくとして)連れてきて、人工的な環境の中で飼育し、それを楽しむ人間のために展示する施設。高村光太郎の「ぼろぼろな駝鳥」を例に挙げるまでもなく、そんな動物園の有り様に疑問を感じている人は多いであろう。ぼくも動物園の動物たちを見る度に、何とも言えない気分になる。
では、動物園は「悪」なのか?
ある女性文化人(?)は、野生動物を見たければ彼らが暮らしている場所まで行って見てくるべきだ、と自身のラジオ番組で発言していた。(教育上、望ましくない場所だから)動物園やアシカショーのある水族館などには決して子供を連れて行かない、と言っている外国人夫婦を見たこともある。
しかし、個人的には、よく聞くこういった意見にもまた、すんなりとはうなずけない気分なのです。
動物園に対して、こうした複雑な感情を抱いている人は、たぶん少なくはない気がするよな〜。
などとつらつらと考えつつ探してみると、まさに同じような動物園への複雑な思いが序文に綴られている「動物園にできること」という本を発見した。
アメリカの動物園の取り組みを通して、動物園の意味と未来を探るルポルタージュなのだが、ホントにホントに素晴らしい本でした。
ルポルタージュを読んでいると、「なぜ(まったく意見を異にする)アチラの角度からも取材してくれないのだろう?、コチラの立場の人にもインタビューしないのだろう?」と歯がゆく思ってしまうことが多いのだが、この本に対してはまったくそういうストレスを感じることがなかった。著者の川端裕人さんという方の立ち位置とバランスの取り方が、読者にとってまさに痒いところに手が届くといった感じなのだ。
川端裕人さんという作家は今までまったくノーチェックだったのだが、ジャーナリストとしてだけではなく、小説家としても活躍されているらしい。
この本があまりにも良かったので、他の作品もぜひ読んでみたいと強く思いました。
「動物園にできること」でリポートされているアメリカの動物園とは色々な意味で目指す方向性が違うのかもしれないが、先日ある方のブログで見たドイツの動物園は、なんだか素敵そうな雰囲気だった(当然、犬連れもOK!)。
作者がこの文庫版で希望を持って指摘しているように、日本の動物園も色々模索しながら変わりつつあるのだろう。と言うよりも、その国の人々の動物園に対するニーズが変われば、おのずとその国の動物園自体も変わっていくものなのだと思う。良きにつけ悪しきにつけ。
それと、本題からははずれるが、近代動物園の有り様のひとつのキーワードとなる「エンリッチメント」の概念は、犬と幸せに暮らす上でもよく思い当たることだ、とも感じました。
「動物園にできること」 川端裕人
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2007年10月20日
走ることについて語るときに僕の語ること
とても面白かった。
村上春樹の小説を初めて読んだのは、「羊をめぐる冒険」が話題になっていた頃。
どうせならということで、デビュー作の「風の歌を聴け」から順を追って読んだのが(一方通行の)長い付き合いの始まりだ。
単行本は高いので、本屋の店先でずいぶん逡巡した記憶がある。どの書店だったかもよく覚えているので、自分がまだ中学生だったことがわかる。住まいが変わり、高校入学以降その店で本を買うことはなくなったからだ。
当時ぼくは久保田早紀の熱心なファン(!!!)だったのだが、マガジンハウスから出版されていた「鳩よ!」という雑誌の企画で、この二人が往復書簡のようなやりとりを行ったことがあり、意外に思うと同時になんだか嬉しくなったりもしたものだ。たしか、久保田早紀の送った「村上さんの文章を読むと、B♭major7のコードが持つ独特な響きを思い起こします」みたいな手紙に、村上春樹が返信をするといった内容だったと思う。今から考えると信じられない話だが、当時は新人作家としてこういった仕事もしないわけにはいかなかったのだろう。もしかしたら、ぼくが村上春樹という作家を初めて知ったのは、この企画によってだったのかもしれない。
ちなみに「鳩よ!」は、「詩を観光地にしてしまった」とか何だとか批判されたりもしたほど、創刊当時けっこうな話題を呼んだ詩を中心とする月刊文芸誌で、ぼくはコレで伊藤比呂美を知った。ぼくが読んでいたのは創刊直後の数年のみで、その後のことはよく知らないのだが、何年か前にすでにこの雑誌はなくなってしまったようだ。
村上春樹の小説に対する当時のぼくの印象は、「今まで読んだことのないタイプの小説」という程度のもので、「コインロッカー・ベイビーズ」で衝撃を受けた村上龍の方がはるかに個人的にはしっくりきた。それでも、結局新刊が出るたびに買い続けたのは、その後多くの人が影響を受けることになる、あの文体がやはり魅力的だったからなのだろう。
村上春樹に関してはどちらかと言うとエッセイの方が好きで(現在はちょっと違いますが)、連載のエッセイ読みたいがためだけに、これまた今はなき「週間アルバイトニュース」という求人誌を読んだりもしていたほどだ。
ともかく、小説だけでなくエッセイ集も多数発表している村上春樹だが、今作ほどそのプライベートな心理的内面をある意味赤裸々に綴った作品はなかったように思う。文体も、今までのエッセイとはあきらかに質感が異なる。
後書きで本人も書いているように、「走ること」というテーマを軸にして語られる村上春樹という一人の小説家、そして一人の人間としてのメモワールなのであろう。
どういう風に良かったか、面白かったかはここには書かないけれど、とても面白かった。
「走ることについて語るときに僕の語ること」 村上春樹
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2007年6月3日
ラブラドールの誓い
「これは悲しいことだけど、破滅の兆しはすでにいたるところに出ているわ。家族の崩壊はもう避けられないことなのよ」
「大丈夫だ、安心してくれ。この家にはラブラドールがいる。だから、家族はこれからも安全だ」
犬と暮らしている人なら多かれ少なかれ感じる機会があるはずだが、時々愛犬の表情や目の動きやバカげた行動に「コイツ、本当は何もかもわかっていて、わざとやっているのではないだろうか??!!」と思わずにはいられない時がある。
この感覚は世界共通なんだなあ、とマット・ヘイグという英国人によって書かれた「ラブラドールの誓い(原題:英国の最後の家族)」を読んで実感した。
かつてあらゆる犬は人間の家族を守るという大義に殉じて生きてきた。
「一つの家族を守ることは、すべての家族を守ることになる」という信念の元に、ひそかに人間社会を陰から支えてきたのだ。
しかし、ある時代にスプリンガー・スパニエルが「スプリンガーの反乱」と呼ばれる変革を犬社会にもたらした。快楽主義者である彼らは、首輪を抜け(スプリンガーって首輪抜けるの上手いの?)、犬自らの快楽を求めて行動することは許されるとの新たな思想を堂々と実行にうつして、世の中の犬たちを煽動したのだ。
多くの犬たちは、この「スプリンガー主義」を受け入れ、次第にかつての義務を放棄し変貌を遂げていった。つまり、「主人を喜ばせるかわりに自分が楽しむために棒切れを取ってくるようになった」のである。
犬の加護を失い、家族は徐々に崩壊を始めたが、人間たちはその真の理由に気付かなかった。彼らは、犬たちが長年自分たち人間を護ってきたとは夢にも思わず、自分たちの家庭生活の崩壊は他の原因によるものと考えていたからだ(共同体の終焉とか、長時間労働とか、食生活の堕落とか.....)。
そんな中、英国のある公園を出発点に「ラブラドールの抵抗」と呼ばれるムーブメントがまき起こった。元盲導犬のラブラドール・リトリーバー「オスカー」が「人間を見限ることは、われら自身を見限ることである」と訴え、やがて全14条からなる「ラブラドールの誓約」が制定されたのである。
現在では、多くのラブラドールが(そして、ほとんどラブラドールだけが)この教えに従い、現世の快楽を追求する「スプリンガー主義」に抵抗を試み、人間の家族を崩壊の危機から救おうと奮闘している。彼らは、人間の家族を守ることによって与えられるという究極の褒美「永遠の恵み」を信じているのだ。
そして、レスキューされたラブラドール「プリンス」が暮らすハンター家にも、ある危機が訪れつつあった。果たして彼は、誓約にしたがって愛する家族を守ることが出来るのだろうか?
というのが、この小説の骨子。
あらゆる単語に「クソ」をつける粗暴なロットワイラーとか(ラブラドールはもちろん馬鹿丁寧な敬語で話す)、「自分自身のために生きるべき」とプリンスを誘惑するスパニエル(スプリンガーではない)の魅惑的な姉妹とか、知的で美しいアイリッシュ・ウルフハウンドの野良犬とか、カリカチュアされた犬種像がちょっと笑える(人によっては怒るだろう)。
プリンスと一緒にハンター家で飼われている猫のラプサンと彼の会話も、さもありなんという感じか。「人間の家族に近寄りすぎると、最後には彼らとともに破滅するということよ」
「悪口を言うつもりはないけど、きみはやはり猫だ。忠誠心とか義務感とかいうことは、猫には理解できない領域だと思う、ちがうかい?」
「たしかに、そうだわ、プリンス坊や。でも、あたしたちは、苦悩のことなら知っているわ。人間の家族のことも理解しているわ」
スプリンガーの血をひくフォールスタッフは、最終的な局面になって、それまでの軽薄な言動とは異なる別の貌を露わにし、その毒舌を通して、「スプリンガー主義」が決して堕落的で奔放にしか過ぎないというわけではないことを示唆する。「おれたちは何ものでもない。息をしている飾り物だ。トイレットペーパーの宣伝をして、幸福な家族の夢を売りつける道具だ。だからその仕事を適当につとめながら、自分たちの楽しみにふけっていい」
「人間の家族は滅びる運命にあるのだ」
そして、ラブラドールは。ラブラドール・リトリーバーのプリンスは、あくまでも無垢で誠実だ。「愛だ。愛を感じるのだ。愛が部屋の隅々から漂ってくる。化粧タンスやテーブルに、卓上ランプやスツールに、壁紙や額縁の絵に、部屋のなかのあらゆるものに、愛がふくまれている。センチメンタルと思うかもしれないが、ほんとうだ。しかたがない。わたしはラブラドールだから。
私の知っていることはすべてがセンチメンタルだ。」
思うに、この純真さを(愚かさ、と言ってもいいかもしれない)愛せるか否かが、人がラブラドールという犬種を好むか否かの分かれ道なのかもしれない。
もっとも、動物によって語られるほとんどの物語と同様に、もちろんこの小説が本質的に風刺しているのは「人間」についてである。「私もいまは理解している。私たち犬と人間とのあいだに根本的な違いがあることを。そしてその違いこそ、彼らが私たちの援助を必要とする理由を明らかにしている。その違いとはこういうことだ。犬は本能を押さえることを学習できるが、人間はそれができない。その見込みがまるでないということだ。」
「彼らはいくら過ちを経験しても、教訓を学ぶことがないのである。」
「人間は死と性欲を支配する必要を感じている。それは私たち飼い犬に対する彼らの態度を見ればわかるだろう。彼らは私たちが自然死する前に命を奪い、あるいは睾丸を切りとって去勢したりする。しかしそれは飼い犬を自由に支配するためではなく、実際には彼らの生活を支配する双子の力、死と性欲を支配しようとするためである。つまり、私たちを生来の衝動から救おうとしながら、現実には彼ら自身をそれから救おうとしているのである。」
もちろん、物語は悲劇的な展開をみせ、やがてその結末を迎える。
つねに、人は愛のために罪を犯す。あらゆる戦争や諍いは憎しみから始まるのではない、それは家族や同胞への愛を母体として生まれるのだ。
残念ながら、世界はラブラドールが信じるほどシンプルではない。
そのことを、他ならぬラブラドールのプリンス自身が体現することになるのだ。
読了後まず感じたことは、「ドンくさくてお人好し」というラブラドールのイメージは本家本元のイギリスでも変わらないんだなあ、ということ。
そして、イギリス人男性というのはつくづく根がクラいなあ、ということである。
彼らの歪んだユーモア感覚というものは、時に不愉快ですらある。「<<ラブラドールの誓約>> 第十四条 永遠の恵みを信じよ
この地上で人間の家族を守るならば、われらは死後の世界において、おのれ自身の家族と一つに結ばれるであろう。
これがわれらに与えられる褒美、「永遠の恵み」である」
たとえその辛辣さが真実を的確に描写しているとしても、個人的にはハリウッドの脳天気さといかがわしさの方が好きかもなあ、と思ったりもして。たぶん。なんとなく。
まあ、そう感じてしまった時点で、すべてを戯画化してみせようという作者の策略に見事はまってしまっている、ということなのかもしれない。
はぁ。
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2007年3月21日
本当のギムレットとは??!! 「ロング・グッドバイ」レイモンド・チャンドラー著/村上春樹訳
日本文学史上最高のハードボイルド小説を挙げろ、と言われたら、村上春樹の「羊をめぐる冒険」とオレは答える。
まあ、誰もそんなことは聞いてくれないのだが、ともかくずいぶん昔からそういう答えだけは用意していた。
ちなみに次点は、(月並みだが)原りょうの「そして夜は甦る」である。
村上春樹がデビューした当初から、彼の文体や作品の構造に関して、チャンドラーをはじめとするいわゆるハードボイルド小説の影響が指摘されてきた。
そして、「ついに」と言うべきか「やっと」と言うべきか、村上訳の「THE LONG GOODBYE」というか「長いお別れ」改め「ロング・グッドバイ」が出版されたのでもちろん購入、先ほど読了しました。
その華麗且つやや過剰な修辞や、物語全体の通奏低音となるある種の透明なセンチメントや、その他のあれやこれやから、読み進める中でたびたび小説家としての村上春樹を想起してしまうのは、けっして不自然なことではないだろう。
要するに、チャンドラーの作品が村上春樹の小説になってしまっていると感じがちなのだが、そうではなくてそもそも村上春樹の作品がチャンドラーだったのだ。
というのが言い過ぎであれば、(本人も認めているように)創作上の方法論の多くのヒントをチャンドラーの作品から得、発展させてきたということなのだろう。
まあ、ともかく非常に興味深く、楽しんで読むことが出来た。とても良かったです。
余談だが、「長いお別れ」と言えばまずはギムレットを思い浮かべる人も多いだろう。もちろんぼくもその一人なのだが...........
「ギムレットには早すぎる」ってやつですね。
小説の中でテリー・レノックスがマーロウに向かって「こっちには本当のギムレットの作り方を知っている人間はいない」、そして「本当のギムレットというのは、ジンを半分とローズ社のライム・ジュースを半分混ぜるんだ。それだけ。」と言うシーンも非常に有名である(よく間違えてマーロウのセリフということになっていたりしますが)。
現在のギムレットは、フレッシュライムに甘味をつけてシェイクされることが多いと思うし、どちらかというとシャープなテイストのカクテルという印象が強い。「本当のギムレット」のレシピに倣ってローズ社のライム・ジュースを使うと甘すぎてとても飲めたものではない、などと一般的には解説されていることが多いようだ。「当時のギムレットはとても甘いカクテルだったのです」などという記述をカクテルブックなどでもよく見かけるのだ。
しかし、果たしてチャンドラーがそんな甘ったるい味のカクテルをマーロウに何度も飲ませるだろうか?というのは、誰でも疑問に思うところである。そもそもマーロウはその味を「甘くもあり、また鋭くもある」と評している。ディテールにこだわるチャンドラーが、その味も知らずに、ローズ社という銘柄まで指定するとはちょっと考えにくいのだ。
実は、あるバーでこんな話を聞いたことがある。
「当時のローズ社のライム・ジュースには、甘口と辛口があったのです。つまり、マーロウが飲んでいたのは、辛口のライムジュースを使い、ほどよい甘味を持ったギムレットだったのです。それこそが本当のギムレットなのです」
真偽のほどは定かではないのだが、なかなかロマンチックな話ではありませんか。
でも個人的には、甘すぎるギムレットは、レノックスのキャラクターのある部分を象徴しているし、マーロウが何度もそのギムレットを口にするのも、友人の精神面に内包されたそのやさしさと弱さに対するある種のシンパシーという気がしないでもないのですが、どうなんでしょ?
レノックス自身は、心にも体にも大きな傷を負って帰ってきた米国内では「本当のギムレット」を飲んでいない。小説内でそれを味わうのは、レノックスと別れた後のマーロウである。
つまり「本当のギムレット」とは、レノックスがすでにほぼ失ってしまった本当の自分、英国時代のレノックスの暗喩として機能しているのではないか。だからレノックスは、つかの間の友情を感じたマーロウに「ギムレットを一杯だけ飲んでから自分のことはすべて忘れて欲しい」と最後の手紙に書いたのではないだろうか。そして、だからこそチャンドラーは、「ヴィクターズ」のバーでマーロウに本当のギムレット、かつて存在した本当のレノックスとの邂逅を演出してみせたのではないだろうか。な〜んて思ったりもするのだが、どうなんでしょ?
最後に、蛇足そのものですが......................
本来「ハードボイルド」とは、ヘミングウェイあたりを元祖とする小説技法上のスタイルのひとつであって、「コートの襟立てて、拳銃バンバン」みたいなイメージで語られるアレとはちょっと違うものだと思います。
その辺の文学手法や文学史上の意義については、「ロング・グッドバイ」訳者あとがきでやや間接的ながら詳しく解説されていて、こちらもなかなか読み応えのある内容でした。
「ロング・グッドバイ」 レイモンド・チャンドラー著/村上春樹訳
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2007年2月13日
岳
前にも書いた気がするが、石塚真一さんの「岳」、めちゃめちゃイイ!!!
「人間交差点」山岳編、って感じか?!
三歩くん、サイコーです。
コミック雑誌をほとんど読まないので、新しい漫画家の作品を読む機会があまりないのですが、これは初巻を読んで以来、新刊発売を毎回楽しみにしています。
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2007年2月11日
山の断想
釣りや山歩きといった遊びのよいところは、オフシーズン、また天候やら何やらで外に出られない時であっても、代わりにソレを(場合によってはソレ以上に)読書で楽しめるということだ。
考えてみればヘンな話なのだが、単なる技術書ばかりではなく、「釣り文学」「山岳小説」といったひとつのジャンルを形成するほどに関連書籍が充実しているのである。まあ、ありがたいのだけれど。
釣りや山歩きという行為は「アウトドアスポーツ」という捉え方も出来るが、技術の向上に必ずしも重点が置かれていない点で、一般の「スポーツ」とはやや趣を異にしている気がする。うまく言えないのだが、技能と快楽度が比例するわけではない、少なくても直結はしていない、という感じ。それがいいとか悪いとかじゃなくて。
実際の話、余計なことをつらつらと考えながらソレを楽しむ人は実に多いようだ。ゆっくり考え事したいがために、山歩きしたり、釣り糸を垂れる人すら、決して少なくないのですよ。たぶん。
そんなわけで(???)、釣りとはあまり関係のないストーリーの「釣り小説」やら、たんに登山愛好家が書いたエッセイである「山岳書」が、多数生み出されることとなるのであろう。おそらく。
その手の本で、最近読んでとても良かった一冊がある。
串田孫一さんの「山の断想」である。
「断想」とは、「折に触れて浮かんでくる断片的な考え」とのことだが、この古い本は哲学者・詩人・画家そして山の随筆で高名な作者が、まさに山歩きの折々に心に浮かんだ断想を綴った文章を集めたものである。
確かに山歩きって(ぼくにとっては釣りもそうなのだが)、断想の連続である。もっとも、ぼくらのほとんどは、それをうまく言葉にすることなんて出来ない。
だからこそ、ここに納められた短文や詩や思索を、山に行けない午後に拾い読みしては、ふむふむふむとうなずきながら感動するのです。「私の中で、山は結晶する。経験の重なりや、記憶や想い出とはおそらく別のところで、旧い山やついこのあいだの山が、自分でも驚くほどの美しさで結晶することがある。
<中略>
それは山から持ちかえった無形のような、幻のような記念品である。山で写した写真や、そこで描いたスケッチは、忘れかけていたものを想い出させるのに役立つだろう。それはまた、友に向って私たちが雄弁に山の物語をするのに大層役立つものである。あるいはこれもまた、もう一度同じような山の風景の前に立ちたいという気持ちをさそい出すかもしれないけれども、この結晶となって私の中に残されたものは、もっと別のものである。宝石を所有する者以上に、それより遙かに豊かな気持ちになって、誇りを持たせる。
この結晶は、いつか消えてなくなることはないだろう。他人にこれだと言って見せられるものではないが、しかし私はたしかにもっている。大切にしようもないものだし、また眺めたい時に取り出して見られるようなものでもないが、そういうものを持っていることを想い出す時、それだけで喜びに囲まれる。」「山へ向い、山でいこう人たちは安易であってはならない。山の中での自分の変化を期待し、未知なる自己、長いあいだ忘れていた自己の発見を注視しなければならないだろう。人間として、当然願わしいそれらの営みは、自然を信頼し、山を信頼するところに始まる。欺くことのない自然は厳しい。しかしその厳しさを知ったものは、さらに自然の寛容をも知るにいたる。
そしてこの大きな信頼と寛容とを、山に向かうことによって学び得た者は、その同じ息づかいによって、人類にたいして寄せるべき信頼と寛容とを学ぶこともできるはずだ。
山は私が死んでも、人類が死滅しても恐らく、青空にそびえ、その山頂は雲の去来に見えかくれするだろう。人間を越えたその自然は、実は私どもの庭にも路傍にもいっぱいある。そのことを山で覚えれば、それは大きな収穫である。」
串田孫一著「山の断想」(大和書房)より
なんだか難しいけど、哲学チックでかっちょいい〜〜〜!!!!(バカ丸出し.........)
昔々、秋元康さんが作詞した「サルトルで眠れない」(早瀬優香子)という名曲があったが、まさにそんな気分(意味不明でしょうが........)。
まあともかく、とってもお気に入りの一冊となりました。
※蛇足ですが.........
前にも書いた気がするが、アウトドアメーカーのカタログ眺めるのも、オイラにとっては自宅にいながらにして楽しめるレジャーなのである。
先日、仕事帰りに立ち寄ったOD-BOXで、Snow Peakの新しいカタログをいただいてきた。
新製品目白押しっぽいのは喜ばしいのだが、「剛炎」とか「火起師」とか、ネーミングセンスがなんだかモンベル化してないか?!
それって、マズくないか〜〜??!!!
投稿者 かえる : 23:38 | 本 | コメント (0) | トラックバック (0)
2006年11月8日
偉大で、華麗で、グレートな、あいつ。
迂闊にもまったくノーチェックだったのだが、ななななんと村上春樹訳の「グレート・ギャツビー」が出版された。
中学生の頃から、龍/春樹のダブル村上本はすべて購入してきたオイラだが、翻訳ものは数点しか読んでいない。
しかし、あの「グレート・ギャツビー」(個人的には「華麗なるギャツビー」が一番馴染みがよい。意図的とはいえ誤訳なんだろうけど)となれば、これは見過ごすわけにはいかないであろう。もちろん購入しました。
読み始めるのが、今から実に楽しみである。
さらにビックリしたことには、かの「The Long Goodbye」というか「長いお別れ」の村上訳も来年には出版される予定だというではないか。これは、ホントにホントに楽しみ。
村上春樹さんの小説の構造、方法論の一部は、いわゆるハードボイルド小説そのものと言ってよいと思うが、その彼がよりによって、あのチャンドラーを、あの「長いお別れ」を、自ら訳してみせるというのだから、これはちょっとした見ものである。
来年、日本のバーではギムレットが流行るかも...........
ところで、村上訳「The Long Goodbye」は、やはり「ロング・グッドバイ」なのだろうか?
「偉大なる...」も「華麗なる...」も、原題とは微妙にニュアンスが異なる、ということで「The Great Gatsby」は「グレート・ギャツビー」に落ち着いたのだろうが、正直に言って、さすが日本を代表する小説家!!!と唸ってしまうような絶妙な新邦題を提示してほしかったという気持ちがある。「
キャッチャー・イン・ザ・ライ」も、しかり。
せっかくなら、日本では「長いお別れ」ですっかり定着した感のあるこのハードボイルド小説の名作に、鮮烈な新しい邦題の命名を期待したい気もするのだが..........
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2006年3月23日
白い牙 - ジャック・ロンドン
文句のつけようのない傑作。
一行一行、かみ締めるように読んだ。
四分の一のイヌの血を持った、孤独な灰色オオカミの数奇な生涯の物語。
子供の頃に、ジュブナイル版を読んで感動した微かな記憶がある。
なぜかとても悲劇的な結末だったような思いこみがあり、終盤ではドキドキしてしまった。
読了後、あ〜よかった、かわいそうなことにならなくてホントによかった、と胸をなで下ろしました。
作者のジャック・ロンドンは、ずいぶん波乱に満ちた一生を送ったようだが、なぜこんなにイヌの生態に通じているのだろう?
かのコンラート・ローレンツが「人、イヌにあう」を著し、動物行動学者の目からイヌ、そしてイヌと人間の関係について考察したのは1953年。
この作品が発表されたのは、それからおよそ50年近くもさかのぼる1906年のことである。
偉大な小説家の洞察力とは、これほどまでに卓越したものなのか?!
実に驚くほどの正確さをもって、真実に迫る創作を成し遂げるものなのですね。
どんな優れたイヌの解説書よりも、イヌという種の本質を教えてくれる一冊である、と思う。
「白い牙」 ジャック・ロンドン 白石佑光訳
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2006年2月23日
へんないきもの、その名はイヌ
今朝の新聞を見ていたら、天野祐吉さんが「へんないきもの」という本のこと(正確にはそのCM)をとりあげていたので、興味をもった。
そういえば、そんな本がベストセラーになったっけ。
この本は、「いったいぜんたい神は何を思ってこのような生物をお作りになったのか!?」と首をかしげたくなるような「へんてこないきもの」たちをクールな文章とリアルなイラストで紹介したものである。
そして、その続編「またまたへんないきもの」には、「目から血を噴くトカゲ」「凍結するカエル」といった「いったいぜんたい神は....」という生物のなかに「イヌ」が登場するのである。
イヌ?犬??そんなに珍しいか???
今、ぼくの足下で大イビキをかいているコイツが?!?!
さて、その理由は?
「変な生き物は?」という問いを、もし動物たちにしたならば、いっせいに「イヌ」という声がかえってくるに違いない。
4000年以上も前から人間に忠実に仕え、300種類にも品種改良された上に狩猟や牧羊から警護、捜査までこなし、挙げ句に飼い主とフリスビーまでやるに至っては、多くの生物はあきれて肩をすくめるだろう、ということなのである。
そういえば数ヶ月前に、各犬種間のDNA上の差異は人間で言えば個性程度のものである、という報道があった。
そうイヌはイヌ、理論上はチワワとセント・バーナードだって子供が作れるはずなのである。
これほど人間の望むままに自らの肉体と精神を自在に変容させた生物はいない。
極めつけの「へんないきもの」なのである、イヌは。
ちなみに、この本の「イヌ」の紹介ページのタイトルは「遠吠えは聞こえない」。
哀しいオチを読み終えた時にその理由はわかります。
「いい人に拾われな、ネ」といって「自然に帰され」たイヌは、いい人の代わりに捕獲巡回車に拾われ、「動物管理センター」に送られる。そしてこれらの「不要犬」は動物愛護法18条、狂犬病予防法6条により、麻袋に詰められ、「ドリームボックス」と呼ばれるガス室で殺処分される。その数は全国で年間16万頭に及ぶ。
多くの犬は、飼い主に再会することなくガス室で死を迎える。致死濃度に達した炭酸ガスで絶命する刹那、この馬鹿がつくほど正直な動物の脳裏に浮かぶのは、飼い主の笑顔なのかもしれない。
やっぱり「へんないきもの」だね、おまえたちは。
いったいぜんたい神は何を思って.............
「またまたへんないきもの」 早川 いくを (著), 寺西 晃
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2006年2月21日
犬と旅に出よう --- 「だから愛犬しゃもんと旅に出る」 塩田佐知子
犬と旅をする、と聞いてまず思い浮かぶのは野田知佑さんと愛犬ガクのことである。
すごく知的でありながら野性味溢れるそのエッセイは、昔から大好きだった。
モーフィーを飼い始めて、ぼくもこれからコイツと色々な場所に行けるんだなあ、とワクワクしたものである。
もっとも、野田さんとガクの旅行先はアラスカだったりするから、参考になるとかそういうレベルではない。
しかし、愛犬と旅行したりキャンプしたりすることをテーマとした本は、探すと意外にも少ない。
執筆当時漫画家やくみつるさんのアシスタントだったという塩田佐知子さんの「だから愛犬しゃもんと旅に出る」は、その意味で貴重な一冊である。
残念ながら現在では絶版となってしまったようで、古本を探すしか方法はないのだが、先日やっと入手することが出来た。
笑えて泣ける、ホントにホントにホントに素敵な本だった。ちょっと、惚れてしまいました。
犬連れ旅行/犬連れキャンプのハウツー本、一応それらの体裁をとってはいるのだが、肝心のハウツーの部分は「まねしないでね」とか書いてある........
そもそも、やっていることがワイルド、というかメチャクチャなのである。
今まで愛犬のしゃもんにかかった出費を計算してみたら、フェラーリ・テスタロッサが買えることが判明............
ハスキーの生態に合わせて、気温マイナス10℃真冬のペンションでもヒーターはつけず窓は開け放す..............
旅行先のペンションにしゃもんを忘れたまま帰路につく........
河原で遊ばしていたら、しゃもんの肉球がまっぷたつに裂け全身麻酔で20針縫ったもののどうしても塞がらない部分が残り、連続での全身麻酔は避けたいからと、無麻酔での縫合を獣医に強要..............
山でしゃもんを離したところシカを追って行方不明になり、呼び戻すために自分のオシッコを周囲にまく........
成犬になったしゃもんが自分の力を誇示するようになると、犬が登れない鎖場に連れて行きしゃもんに一人では登れないことを自覚させた後おんぶひもで背中にくくりつけそこを登ってみせる(!!!)(ちなみにこれは偶然目撃した人が「ハスキーを背負ってロッククライミングをしている女性がいた!!」と雑誌「BE-PAL」に投稿し、後日「接近遭遇!驚愕のアウトドア奇人変人集!!」というコーナーに掲載された.....)、しゃもんが渡れない急流に架けられた丸太橋を同様におんぶひもで背中にくくりつけて渡る(!!!)......
厳冬期、吹雪の八ヶ岳に雨具と長靴で登山し、危険を感じたしゃもんが勝手に下山を始めたことにより命拾い...........
雪山にキャンプに出かけた際、大好きな酒を忘れたという理由で、車から降りたがるしゃもんを無視して酒屋を探し半日走り回る............
山中でのキャンプ中に暴風雨にあい、急遽撤収し雨具も含めすべての荷物を車に積み終わった後、鍵を車内に残したままロックしてしまい、気温3℃ずぶぬれの状態で木の下でしゃもんと抱き合って夜を明かす.........
まったくよくぞご無事で、という感じである。
そう、この本は、ハウツー本なんかじゃないのである。
イケイケOLだった著者が、アラスカで犬橇を経験したことからシベリアン・ハスキーを飼い始め、愛犬と多くの時間を過ごすためにOLを辞めイラストと雑文書きの仕事を始める。自然の中で見せる愛犬の笑顔のために、共に旅行し、山に登り、やがてキャンプを始め、その中で色々なことを考え悩み学び、愛犬の体力の衰えと共に旅のスタイルも徐々に変え、やがて年老いた愛犬の姿にしゃもんのいない世界を思うようになる.......
「犬との旅」を通して、ひとりの女性と愛犬の成長の歴史を綴った素敵なエッセイ&コミック本なのです。
オススメの宿を聞かれ、二人の知人にまったく同じペンションを紹介した時のエピソードというのが出てくる。
後日、Aさんからは「サイコーだった、クレームのつけようがない」、Bさんからは「すごく感じが悪かった、二度と行きたくない」という感想を聞いたそうだ。
おもしろいことに二人はまったく同じ体験をペンションでしていた。
それは、食事中にずっと吠えていた犬の飼い主に対して、オーナーが「もう少ししつけをしてからいらしてください」と注意したということである。
これに対して、Aさんは「ハッキリ言ってくれるオーナーは信用できる」と感じ、Bさんは「みんな犬連れで気にならないのに、言い方もキツイし白けた」と感じたのである。
どちらが正しいとかそういうことではない、同じ出来事に対しても様々な感じ方があるということなのである。
だから、この本もきっと、ちっとも参考にならないし犬がかわいそうと感じる人もいるだろうし、思わずジーンときちゃう人もいるだろう。
ともかく、少なくてもぼくにはヤラれるフレーズが満載なのだ。
「ある初秋の日、しゃもんとキャンプしてた河原で水遊びをしていると、それを見ていた地元のオヤジが、
「あんた、きったねぇー足してんなー」と、いうではないか。
すでに足に関しては開き直っていた私は、ケッ、と無視していると、
「でも、あんたのそのきったねー足見てると、その犬がどんなに幸せかわかるよ」と笑いながらいわれた。
このオヤジのひとことは、いまだに私の宝物である。」
「人と犬は楽しむ人生の内容が違う。そして、歩むべき道も違う。
犬は擬人化されず、犬本来の"犬生"を幸せに生きるべきだ。
そう思いながらお互いの幸せのためと、山ほどあった問題や障害に真正面から立ち向かってきた。
それで本当にしゃもんは幸せだったか? なんてわからない。
それは、しゃもん自身にしかわからない。
ひとつ確かなのは、"私がとても幸せだった"ということだけだ。
---それで、いいのだと思う。」
「これからどんな旅になるのかなんてわかんない
未来はわかんないからおもしろい
でも
しゃもんと一緒にいけるなら
どんな旅でも楽しいさ!!」
残念ながら、もうガクもしゃもんもこの世にはいない。
モーフィーとは、あと何年旅行を楽しめるのだろうか?
ペンションでも、貸別荘でも、キャンプでもいいから、今すぐモーと旅立ちたくなっちゃったな。
「だから愛犬しゃもんと旅に出る」 塩田佐知子
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2006年2月8日
「老犬 クー太18歳」と「はるがいったら」 犬と人間の不思議な関係
かずさんから教えていただいたNHKにんげんドキュメント「老犬 クー太18歳」を見た。
人間と犬の関係は本当に不思議だ。精神的な側面において、ある種の共生関係にあると思う。
飼い主と犬は、愛情が深まるほど、互いに依存しあうようになる。こんな動物、他にいるのだろうか?
猫はどうだろう? 飼い主はともかく、猫は飼い主に依存しているわけではない気がする。
馬は? やっぱりちょっと違うと思う。
1年間に人間の4歳分年を取るという犬は、あっと言う間に飼い主の年齢を追い越し、やがては飼い主よりも先に死ぬ。
そのあらかじめ約束された悲劇性にすら何かの意味があるように思えてしまうほどだ。
18年生きたクー太を看取った飼い主さんが、番組の最後でこうつぶやく。
「やっぱりクーを飼わなければわからなかったことは多かった。クーから教えられたことはとても大きい」
このブログで今まで何度も、折に触れ書いてきたような気がするが、やはりこの一言につきる。
もちろん、それは犬がなにか高尚な生き物だという意味ではない。
彼らの振る舞いのほとんどは、生きるためというシンプルな理由によってなされているだけで、深く何かを考えているわけではないだろう。
飼い主になついたり、病気になったり、あれやこれやにも、当たり前だが特に意味はない。
基本的に、単純で、狡猾で、倫理感に欠け、ちょっと足りない動物である。
でも、そんな間の抜けた彼らから、時々ぼくらはハッと色々なことに気付かされるのだなあ。
ホントに不思議、犬と人間の関係って。
老犬介護と言えば、最近読んだ小説に、飛鳥井千砂さんの「はるがいったら」というものがある。
老犬の介護をしながら高校に通う何ごともそつなくこなすが熱くなれない「いい子」な弟「行」、両親の離婚により彼とは離れて暮らしている完璧主義の姉「園」、婚約者がいながら園と関係を続ける兄弟の幼なじみ。
みんなそれぞれ、普通でいて、やっぱりちょっと普通じゃない。
みんなそれぞれ、精一杯に生きていて、少しずつ問題を抱えている。
みんなそれぞれ、優しくて、残酷。
重要な登場人物にぼくと同じ名前の男がいて、文中で何度も自分の名前が出てくるので何だかヘンな感じ。
不思議な読後感を残した本だった。
ハルの死体をぼうっと眺めた。さっきまだ生きている時に、体を撫でてやった時と変わらない姿だ。でも死んでいる。
それが自然のことのような気がした。こんなボロ雑巾みたいなガリガリの体で、よく生きていたもんだ。
「生きてる」と「死んでる」の違いって何だ?そんなことをふと考えた。さっきと全く同じ姿なのに、さっきは「生きて」いたハルが、今は「死んで」いる。ひょっとして、ハルはもうずっとずっと前から死んでいたんじゃないだろうか。そんな訳のわからないことも考えた。
リンゴが好きだった。テーブルからハルに向かってリンゴの八つ切りにしたのを投げてやると、ジャンプして口でキャッチして、シャキシャキと音をさせて食べた。
クリスマスにシャンパンの栓を父親が飛ばしたら、びっくりして腰を抜かした。それ以来、ビン状のものを見ると、急いで逃げた。
雪が積もった日、園と恭ちゃんと三人で、ハルの散歩をした。道路の横の溝に雪が積もって上げ底になっていて、気付かずハルと俺が歩いたら、二人で溝にスポッとはまった。
園と恭ちゃんに大笑いされた。
俺と園がおやつを食べていると、前肢で俺たちの背中をトントンとやって、「僕にもくれ」とせがんだ。
心の底の方で、何かがチリチリと鳴っている気がする。「哀しい」とか「辛い」とかは、こういう状態のことを言うんだったか?
何でもいいや。今のこの気持ちに、名前なんて付けなくてもいい。そう思った。これが「哀しい」とか「辛い」とかだと決めてしまったら、俺はまたいつものように、そういうこともあるんだ、とやり過ごしてしまう。
飛鳥井千砂 「はるがいったら」
言うまでもなく、モーフィーも日々年をとっている。当然いつか死ぬ。
若くても、事故にあったり、病に倒れたりするかもしれない。
でも、それはそれ。
「生きてるあいだは楽しくやろうぜ!」
今はただそう思っている。
「老犬 クー太18歳」のラスト、海岸で足の悪い老犬と海岸で遊ぶ青年の姿がとてもよかった。
サッカーボールを蹴る青年、老犬はもうそのボールを追うことは出来ない。
でも、老犬は老犬で波打ち際で楽しんでいる。
あれはよかった。本当によかった。
ああいう風になりたいな。
一緒にボールを追いかけた思い出がお互いに沢山あれば、きっともう実際にボールをやりとりする必要なんてないんだよね。
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2006年1月29日
「ペットフードで健康になる」 坂本徹也
モーフィーの食事は朝と晩の二回、基本的にはペットフードである。
銘柄にもさほどこだわっていない。
幼犬の頃、実験的に生食を数週間続けてみたこともあるので、その効果のほどはよくわかっている。
そもそも、生の食材を中心とした手作り食(昔ながらの味噌汁ぶっかけご飯や残飯の類でもよい)と、各商品間に程度の差こそあれ経済性や利便性、保存性の向上を目指したインスタント食品であるドッグフード、どちらが食事として優れているかは考えるまでもないであろう。
しかし、色々思うところもあり、また単純に経済面や利便性の点から、(オヤツを除いて)本物の食材を与えているのはせいぜい週に数度である。
老いとともに、徐々にインスタント・フードの回数を減らしていきたいとは思っているが、今のところはこれで我慢してもらうつもりである。
常に心がけているのは、ヤツが何でも「おいしい、おいしい」と喜んで食べるような演出をしてあげるということぐらいである。
かの北大路魯山人は、「味覚馬鹿」という一文にこう記している。「えて栄養食と称するものは、病人か小児が収監されているときのような不自由人だけに当てはまるもので、食おうと思えばなんでも食える自由人には、ビタミンだのカロリーなど口やかましくいう栄養論者の説など気にする必要はない。
好きなものばかりを食いつづけて行くことだ。好きなものでなければ食わぬと、決めてかかることが理想的である。
鶏や飼い犬のような宛てがいの料理は真の栄養にはならない。自由人には医者がいうような偏食の弊はない。偏食が災いするまでには、口の方で飽きが来て、転食するから心配はない。」
簡単に言えば、「美味しいと思わぬものは、栄養にはならぬ。美味しいものは必ず栄養になる。」
であり、
つまり、「美味いもの食いの道楽は健康への投資と心得よ。」
ということである。
ぼくはこの考え方に全面的に賛成するものであるが、文中にもあるように犬の食事は「宛てがい」のものであるというのが現実である。
モーも例外ではない。大切な家族の一員とはいっても、犬としての家族である。さすがに「小遣いやるから、勝手に何でも好きなものを食べてこい」というわけにはいかない。
せめて「美味しくいただく」ということで、得体のしれないドッグフードであれ、イイお値段の馬肉であれ、真の栄養としてヤツの血となり肉となることを願っている次第である。
そうは言っても、ドッグフード、あるいは犬の食事に関しての情報には飼い主として敏感にならざるを得ない。
ネットの発達によって情報の収集はたやすくなったが、一般に犬の食事に関して常識とされているものの中には、どうも納得がいかないことも多いという印象があった。
特にドッグフードに関しては、都市伝説に近いようなものまであり、情報を鵜呑みにすることは躊躇われる。
ドッグフードについて触れた書物も多少はあるが、フードメーカーが何らかの形で関わっている宣伝のための本、あるいは偏執狂的なアンチ・ドッグフード派によるものがほとんどで、個人的にはどちらも共感できる内容ではなかった(部分的に参考にはなる)。
本書「ペットフードで健康になる」は、最近台頭してきた国内の小規模な高級ペットフードメーカーへの取材を中心に、ペットフードや関連業界が抱える問題をリポートした貴重な一冊である。
今まで個人的に「たぶんこうなんじゃないかな?」と思っていた犬の健康やフードに関する考え方がほぼ肯定される可能性も感じられて、思わずうなずく箇所も多かった。
真空パックで小分けにしたり、まったくといってよいほど保存の効かない、極めて高価格の、いわゆるプレミアム・ナチュラル・フードに対しては、率直に言って「ベターなバランスというものはあるにせよ、保存性や経済性を高めるのがドッグフードのコンセプトなのでまったくナンセンス。そもそもナチュラルとは相反する性質を目的として開発された製品にナチュラルさを求めるのは本末転倒。ドッグフードのメリットである保存性と経済性が損なわれるのであれば、本来の自然の食材を与えた方がよい」という風に思っていた。そこはかとなく漂う宗教っぽさも苦手だし、我々飼い主が健康上の問題の解決をフードだけに求める傾向にも大いに疑問を感じるところである。
ところがそれらの新興企業の経営者達が一様に「本当はウチのフードだけでなく、手作りのものを与えていただくのが一番なのだけど........」と語っているのを読んで多少印象が変わった。何らかの事情で既存のペットフードに疑問を感じ、理想のペットフード開発を始めた彼らは、そんなことは先刻承知だったのである。それでも、ほとんどの犬がドッグフードだけで育ってきたという日本の現状や緊急時のことを考えると、なるべく安全で本来の食事に近いドッグフードというものは必要ということなのであろう。
正直、多少踏み込みが甘いと感じる箇所も多い。事実と伝聞が入り交じっている点も気になる。
最大の不満は、どうせだったら本書でペットの健康を害する諸悪の根元であるかのように扱われる大手ペットフードメーカーへの取材も敢行して欲しかった、ということである。
しかし、そういった点を差し引いても、飼い主としての多くの疑問にある程度の回答を提示してくれる満足のいく一冊であった。
ペットジャーナリストを標榜する著者の次作にも、非常に期待しています。
「ペットフードで健康になる」 坂本徹也
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2006年1月14日
「動物の学校〈1〉犬―イヌはぼくらの友だちだ」 畑正憲
中学生の頃だったと思うけれど、ムツゴロウシリーズに夢中だった。
かっこいいんだよねえ、この人。
頭が良くて、好奇心旺盛、そしてまさにムチャゴロウと言うべき勇気と行動力。
細かい内容は忘れちゃったけど、「ムツゴロウの青春記」だったかなあ、とても感動した記憶がある。
なんの本だったか「死ぬまでに一度は人肉を食べてみたい」なんてこととかも書いてあって、この人の探求心は本物だなあと感心させられた。
たぶん、もうすでに一度くらいは試してるだろうね。
この本は、小学校高学年〜程度を対象として「犬」という動物について解説したもの。
以前に取り上げた「いのちの食べかた」もそうだが、子供向けに深みのあるテーマをやさしく書き下ろした本にはとても優れた作品が多いように思う。
ていうか、小学生程度のオイラの頭でも理解しやすいってことか。
犬という不思議な動物の起源、犬種の誕生とその意味するところ、犬を飼うということ、野良犬問題について、誤って伝えられている犬の性質・行動としつけについて、etc.etc.
真に重要な部分は繰り返し繰り返し、まだ正確な理解が難しいと思われる部分は思い切って簡略化して、あくまでも子供が読むことを前提に記されている。
ところどころムチャゴロウ的論理の飛躍に感じられてしまう箇所もあるのだが、丁寧に読むと、それは対象年齢を考慮した熟慮の末の結論の単純化だということがわかる。
ぼくは、ページをめくるたびに、ウンウンと大きくうなずかされた。
密度の濃い長年の経験から導き出されたコトバには、力強い説得力を感じる。
さらに本格的に犬に関しての考察をまとめた本が出版される計画もあるようだ。
今から待ち遠しいです。
「動物の学校〈1〉犬―イヌはぼくらの友だちだ」 畑正憲
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2005年12月2日
犬と暮らすということ - 「雨はコーラがのめない」/「つめたいよるに」 江國香織
「コウカイニッシ。」さんで紹介されていて興味をもったので、江國香織さんの「雨はコーラがのめない」を読んだ。
「雨」は彼女の愛犬の名前。
なぜかぼくは、今までずっとこの人気作家の愛犬はゴールデン・リトリバーだと思っていたのだが、アメリカン・コッカスパニエルの勘違いだったようだ。
正直言って、ぼくはこの小説家の文章が苦手である。どうも妙な違和感を感じてしまうのだ。
女性に人気があるという理由は、とてもよくわかる気がするのだけれど。
たぶん、ぼくが男性で、なおかつオジサンだからなのだろう。
ともあれ、著者の愛犬と愛する音楽について記したこのエッセイ集は、しみじみとイイ。
ぼくもこういう風に犬と暮らしていきたいなあ。
腹心の友、として。
雨と私のいる部屋に、音楽が流れている。雨には雨の意志や感情があり、私には私の意志や感情がある。でも、私と雨はそれを言葉で伝えあうことはできない。一緒にいても、実は全然別の世界を生きているのかもしれない、と思うことがある。
この部屋も、散歩やごはんといったきまりごとも、お天気も、電話の音も、雨にとってと私にとってとでは全然別の世界を構成しているのではないか。おもしろいなと思うのは、もしそうでも、二つの別々の世界に、同じ音楽が流れていることだ。
私は言葉に依存しがちなので、言葉に露ほども依存していない雨との生活は驚きにみちている。驚きと、畏敬の念に。
こういう文章に触れると、ああこの人は本当に犬と暮らしているのだなあ、と切ない気持ちになります。
ついでと言ってはナンだが、数多い犬が登場する江國作品の中でも、名作と評判の「デューク」収録の「つめたいよるに」も読了。
「デューク」はドッグラバーズのための、おとぎばなし。
犬を愛している、あるいはかつて愛した人ならきっとわかる、その経験のない人にはたぶん正確には理解できない、その感じ。
まあ、傑作でしょうね。
たぶん。きっと。
あなたも胸がいっぱいになります。
犬と暮らすという、その愛おしさと切なさに。
投稿者 かえる : 23:41 | 本 | コメント (3) | トラックバック (0)
2005年10月16日
ベルカ、吠えないのか?
人間と犬、犬と戦争、戦争と人間。
犬は人間と共に世界に広がり、人間の望む容姿・性格・能力を身につけてきた。
それが遠い昔に人類とイヌの先祖が交わした契約だからだ。
だから、犬はつねに人間の隣にいた。
もちろんそれが戦場であってもだ。
犬の繁殖とそこから生み出された犬種の特徴は、その時代の持つ背景と人間の欲望を正確に反映する。
20世紀、多くの犬たちは戦争や戦いのために生み出され、忠実にその役目を果たしてきた。
その末裔である現在のぼくらの愛犬の遺伝子の未来図が、平和と愛情に溢れたものであることを願いたい。
4頭の軍用犬を祖とする犬の系譜と絡み合う戦争の、いや人間の歴史。
それはもちろん犬の歴史でもある。
読みやすくはないが、その分深く心に刺さる、コトバと物語。
「ベルカ、吠えないのか?」 古川日出男
投稿者 かえる : 20:39 | 本 | コメント (0) | トラックバック (1)
2005年8月12日
われわれは犬である
テリー・ベインの著作「われわれは犬である」は、犬の視点から日常生活を描写する、という趣向の小品。
筆者は動物の専門家ではないので、本書で発揮されているのは犬の行動心理に関する正確な洞察ではなく、愛情とユーモア(と犬と暮らす者なら誰でも持つ感慨)に満ちた想像力である。
うなずける箇所も多い、というか(文章にはまとめられなくても)普段感じていることばかりなので、正直新鮮な感動は何もなかった。
それでも、ところどころイイことが書いてありました。
寛容とは何か、誰からも教わっていない。もとより、その必要はない。犬は寛容の生きた見本である。
家族が何日も、何週間も、あるいは何ヶ月も留守にしても、犬は愛情を忘れない。
雨の日、霙の日、かんかん照りの夏の日に、外に出しっぱなしにされても恨まない。
ソファに乗るな、清浄器の水を飲むな、スーパーマン人形を噛むな、と厳しく叱られて、何が悪かったのかわからなくても、ふてくされたりしない。
家族のさしのべる手に、犬は親愛をもってこたえる。
怒りにも愛情でこたえる。
愛には愛。
すべてこれ愛。
犬は寛容のかたまりだ。
そして、このO・ヘンリー賞受賞作家はやはりこうも書いている。
何ものかを探しもとめる心で犬の目を覗くなら、人はそこに神の顔を見る。
もっとも、結局のところは以下の結論に落ち着くのである。じつにその通り。
人間は、とにかく物事を不必要にややこしく考えがちだから、ここできれいさっぱり、単純明快に話をしめくくることにしたい。人は人、犬は犬、何ごともすべて、お互いの親愛に任せておけばいい。
「われわれは犬である」
テリー・ベイン 著/池 央耿 訳
アスペクト 発行
投稿者 かえる : 21:40 | 本 | コメント (2) | トラックバック (0)
2005年6月24日
思へば遠く来たもんだ - 教科書でおぼえた名詩
子供の時に広く感じた広場や校庭に、大人になってから訪れると、そのちっぽけさに驚くことがある。
それとは逆に、子供の時にほとんど気にもとめていなかった言葉が、大人になると圧倒的なリアリティをともなって理解出来るようになることがある。
「教科書でおぼえた名詩」は、中学・高校の教科書で学んだ(はずの)有名な詩を集めた本である。
あらためて読んでみると、やっぱり名作揃いなんですね、学校の教科書は。
読書感想文さえ廃止すれば、国語はもうちょっと人気科目になるんじゃないかしら。
アレってホントにばかばかしいよなぁ。
直立小熊猫「風太くん」フィーバーが吹き荒れる昨今、高村光太郎の「ぼろぼろな駝鳥」はまだ教科書に載っているのだろうか?
茨木のり子の「わたしが一番きれいだったとき」の最後の「ね」の巧妙さに込められた意味が、今は少しわかる気がする。
そして、中原中也の「頑是ない歌」は.................セツナイ
まさに頑是ない子供達にあの詩を学ばせようとしたことには、実はふかーいふかーい意味があったのかもね。
投稿者 かえる : 23:49 | 本 | コメント (4) | トラックバック (0)
2005年6月11日
愛犬と幸せになる四柱推命
本が好きなので、何かに熱中しはじめるとそれに関する書物を見境なく集めてしまう困った癖がある。
以前は、おもにフライフィッシングを中心とした釣りに関する本を買い集めていた。
今はもちろん犬に関するものが、マイブームである。
表紙に犬の絵が描いてあったり、「犬」という文字があるだけで、手に取ってしまうし、「ラブラドール」なんて書いてあったら即「買い」である。中身のクオリティや評判はほとんど考慮せずに、です。
やれやれ。。。
つい最近買ったのは「ドッグズ・マインド―最良の犬にする方法・最良の飼主になる方法」、「犬連れ北海道3000キロの旅」。
そして、この「愛犬と幸せになる四柱推命」。ペットブーム便乗企画もついにここまできたか!、の愛犬との相性占い本。われながらアホ、である。
でもねえ、2時間くらいたっぷり楽しめますよ。
ちなみにモーの性格と運勢は、
「比肩のマイペースに印綬の知性がプラスされ、発展的な運気となります。どんな人とも犬とも、比較的うまくやっていくでしょう。何かの大会で賞を取ったり、飼い主に幸運を運んでくれたりすることもあります。」
おー、まったくその通り!!!............か???
ワタクシはどういう飼い主かというと、
「ユニークな発想を持ち、それを世に問おうとまじめに努力します。マニアックになりすぎないよう、バランスをとりましょう。愛犬に対しても、万事あまり凝りすぎないほうがいいかもしれません。」
よけいなお世話ですッ!
妻はというと、
「何事も器用にこなしますが、自己満足に終わることも。偏印も傷官も感情の起伏が激しい星なので、その気質が強く現れます。ただ、年齢とともに丸くなるでしょう。愛犬には甘い保護者かもしれません。」
ふむふむ、なるほどね。
そして、我々と愛犬との相性は、
「偏印も比肩も自分のやりたいことをまげないので、互いに自己主張してぶつかり合うように思えますが、実は意外にうまくいく組み合わせです。
竹を割ったような性格の愛犬は、自分の行動を妨げられない限り、新しいもの好きのあなたが何をしてようがあまり気にしません。<中略>
はた目には、てんでに好きなことをしている不思議なふたりと映りますが、本人たちは、いたって幸せです。」
つまり、「それぞれが好きなことをして幸せ」だってさ。
ぼくも妻も「元命」というヤツは同じなので、二人とも上記のようにモーとの相性はバッチリ(??)の模様。
ところが、問題は我々夫婦。元命「偏印」は、「遊び相手としては最高だが熱しやすく冷めやすい」、だと。
うーむ、まぁ、いいか。
犬はかすがい、ってことで.......
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2005年5月13日
21世紀の自然生活人へ―The Cold Mountain's Letters
日本語の文章で、個人的にもっとも好きなのは田渕義雄さんのそれ。
小説家ではないし、エッセイストでもない。いわゆるアウトドアライターのはしりのような作家である。
先日出かけたキャンプ場のある村に、十数年前から暮らしているそうだ。
色とりどりのハーブや野菜が植えられた菜園に囲まれ、自作の家具や古い道具達が静かに配置された、森暮らしの家はため息がでるほど美しい。
都会的で、快楽的で、自然回帰的な、ソローヴィアン。
そんな言葉誰も知らなかった時代から、LOHASな生活やってたんだよね。
その孤独癖ゆえに、あまり評判は芳しくないという噂もあるようだが、とにかくぼくは彼の文章がスキ!
一文一文を連ねたリズムで一遍の詩のように文章を構築する人だから、断片的に抜き出すのは気が引けますが、この本ではこんな感じ。
キッチンは、この世で一番大切な場所であろう。キッチンは、神聖な処なのだ。だからキッチンには"竈三柱大御神"の御札を祀るのだ。
オウムには、給食センターはあっても、キッチンはなかった。美しい宗教は、美しいキッチンと共に生まれる。
散歩は冬の自然趣味。しんみりと物思いながら、あてどなく歩くのはいい。
生きていることの淋しさを踏みしめながら歩くのがいい。
存在は淋しい。しかし、この淋しさ故に、詩があり、絵があり、音楽があり、そして自然趣味がある。淋しさのない趣味にはろくなものがない。憂いのない女には美しさがない。
今年は、コールマンの赤ランタンが久し振りに大活躍した。サンキュー・ミスター・コールマン。夏に何度も大きなキャンプをやったからね。本格的な森の生活もやった。
きみの明るすぎにケチをつけたこともあった。ゴメン。謝ります。明るすぎるときには、消灯してやればよかったのだ。きみの明るさに甘えてたんだ。
焚火はいい。焚火は百インチ・ハイビジョン、ノー・コマーシャル、エンドレスの匂いつき思い出テレビジョン。たとえそれが裏庭での焚火であっても、火をおこせば、心は遠い日の川や湖や砂漠や森をさまようのだ。
この本は雑誌の連載を単行本化したものである。
執筆された当時、地下鉄サリン事件が起きた。
村上春樹さんと同様に、孤独なこの作家も、事件を契機として自らのスタイルで社会へコミットメントしていくことを考えはじめるくだりには、胸を打たれた。
蛇足だが、愛犬の次郎もたびたび登場する。
「21世紀の自然生活人へ―The Cold Mountain's Letters」 - 田渕義雄
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2005年5月8日
古道具 中野商店
西東京の街の古道具屋「中野商店」、そこに集う人々。
それぞれのじれったい恋のようなもの、あるいは恋そのもの。
小道具も、科白も、行間の空気感も、まさに川上弘美ワールド。
登場するアパートの大家夫妻は、大きなアフガンハウンドを飼っているが、やがて死んでしまう。
主人公ヒトミが、恋のような友情のようなあいまいな感情を抱くようになるバイト仲間のタケオは、「犬が死ぬと、つらい」とぽつりとつぶやく。
同級生のいじめによって小指の先を失った過去を持つ彼は、子供の頃から飼っていた犬が去年死んだから中野商店で働き始めた、と言う。
この小説で犬が出てくる場面は、このちょっとしたエピソードだけ。
でも、この作家は犬と暮らすということの究極的な意味を、自らの小説に残酷に利用する。
犬は飼い主より、早く死ぬ。
飼い主は犬より、早く死んではいけない。
犬と暮らすということは、その死を必ず受け止めなければならない、ということ。
愛する者の死を、必ず受け止めなければならない、ということ。
「古道具 中野商店」川上弘美
投稿者 かえる : 14:06 | 本 | コメント (2) | トラックバック (4)
2005年4月13日
祝! 「グイン・サーガ」シリーズ 100巻達成!!!
栗本薫の「グイン・サーガ」シリーズがついに100巻を迎えた。
第一巻の刊行が1979年、昭和54年のこと。
ぼくはそれから2年後くらい中学校に入学した頃から読み始め、その後は新刊が出るたびにリアルタイムでこの長大な物語とともに成長してきた。
それから四半世紀が経ち、あの時の埼玉の田舎の地味な中学生だったぼくは、今でも埼玉に住んで地味な中年のおじさんをやっている。
あの頃の、いくつかの望みは叶い、ほとんどの夢は夢のままに終わろうとしている。
この小説はもともと100巻で完結する予定であったのだが、この調子だと150巻くらいは余裕でいきそうである。
「栗本さん、ご健在なうちに責任もって完結させてよ!」という気持ちと、「いつまでも終わらないでいて欲しい!」という願望が入り交じって、自分でもどっちなんだかよくわからない。
いずれにせよ、26年かけての100巻達成はいち愛読者としてもまさに感無量です。
こうなれば、最終巻を読むまでは何があってもくたばるわけには参りませぬ!
投稿者 かえる : 23:22 | 本 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年4月9日
半島を出よ
村上龍著「半島を出よ」読了。
村上龍が最後の1ページまで緊張感を失わずに書き上げた作品は、例外なく凄い。
「コインロッカー・ベイビーズ」、「五分後の世界」、そしてコレ、などなど。
2010年、日本の経済は破綻し街にはホームレスが溢れている。そんな中、北朝鮮の特殊部隊9名が福岡ドームを武力占拠、後続部隊とともに福岡を制圧し地方自治体首長に日本からの独立を宣言させる、日本政府は何もできないまま九州を封鎖する。過去に凶悪な犯罪を犯し今なお社会に適応できずに特殊なコミュニティに身を寄せる変質的な少年たちだけが、彼らに闘いを挑む。
規格をはずれた少年たちを救うものはいったい何か?
北朝鮮の兵士はこの国で何を感じるのか?
こんな話を書く作家も作家なら、出版する出版社も出版社である。
凄すぎて誰も真似できない。
そういえば、村上春樹の文体の物真似は腐るほどあるが、村上龍の文章のリズムと密度は誰にもコピーできない。
海外での生活、阪神大震災、地下鉄サリン事件、を経て必死に日本社会へのコミットを始めた村上春樹の姿勢には胸を打たれるが、村上龍の作品はつねにこのいささか特殊な社会へのコミットメントそのものであったように思う。
「破壊と暴力」をモチーフとするが、その先にはいつもポジティブな何かが感じられる点が、ぼくは好きです。
この作家のメッセージは常に非常にシンプルである。
当たり前のことしか言わない。しかし、当たり前のことが書いてある小説は、意外に少ない。
そして、当たり前のことを力強く主張する小説は、当たり前だがとても強い。
それ故、そのメッセージは時折驚くほどぼくを傷つけるのです。
もうひとつの「13歳のハローワーク」と言ってもいい作品だ、と ぼくは思う。
教師や施設の職員やその他の大人たちはヒノに、人の命は何よりも尊いのだとクソのような言いぐさを呪文のように繰り返すだけだった。イラクやアフガニスタンやシリアの内乱では毎日大勢の人が死んでいて、スーダンやエチオピアの紛争では数十万の子供が餓死したそうだ。だが教師や施設の職員やその他の大人たちにとって、そういった現実は命の尊さとは無関係らしい。そういった腐った大人たちから正しく生きろと言われても子どもは何のことかわからない。もちろん素直に従う子どももいる。だがそいつらは大人が正しいのだと自分で判断して従うわけではない。大人に従えば利益があって、従うのを拒否すると罰が与えられるのを知っていて、それから逃れているだけだ。大事なのは、今のヒノやタケグチみたいに、やらなければならない何かを見つけることだ。何もすることがなければ、腐ったものを見続け、腐った大人たちの言うことを聞き続けることになり、そしていつの日か大人に従い指示通りに生きたところで何の興奮もなく、楽しくもなかったということに気づき、ネットで仲間を募集して自殺するか、ホームレスになるか、あるいはあきらめて大人の奴隷になってこき使われて、それで一生を終わることになる。
投稿者 かえる : 03:44 | 本 | コメント (7) | トラックバック (9)
2005年4月3日
アンジュール-ある犬の物語
コウカイニッシ。さんの記事「うったえてくるもの」でガブリエル・バンサンの「アンジュール-ある犬の物語」が取り上げられていた。
有名な絵本らしいのだが、まったく知らなかった。
でも、絵には見覚えがある。TVCMで見た時から気になっていたのだ。
ある日、犬は、車の窓から投げ捨てられる。
そんな風に野良犬になった犬の一日が、そこには描かれている。
シンプルなデッサン画には、ただの一文字も文章がついていない。
絵だけの絵本。
何かを語っているということはない、むしろそれ故にぼくたちがそこに意味を付加し、なにかしらの感情を抱く。
犬とおんなじ、です。
投稿者 かえる : 20:12 | 本 | コメント (2) | トラックバック (1)
2005年3月22日
ラブラドールの場合
「ザ・カルチャークラッシュ―ヒト文化とイヌ文化の衝突 動物の学習理論と行動科学に基づいたトレーニングのすすめ」という本を読んでいる。
これまでの常識を覆す驚愕のしつけ理論が展開されている、という評判を聞いて読み始めたのだが、今のところまったくそういう印象は受けていない。
「行動問題と解決法」という章に、イヌの立場になってみようという意図で、(生活環境に存在する物に対しての)人間とイヌの認識の違いを一覧表で例示したページが出てくるのだが、最後の行を読んで大笑いしてしまった。
えらいマジメな本なのに、きちんとオチつけてる。
人間とイヌの認識の違い | |
人間 | イヌ |
家具 | 噛むオモチャ |
投稿者 かえる : 23:45 | 本 | コメント (2) | トラックバック (0)
2005年3月18日
大橋歩さんのこと
平凡パンチ世代ではないのだけれど、大橋歩さんはやっぱり素敵な人だと思う。
おだやかでいつも優しくもちろんお洒落、でもその芯には凛とした美意識を強く感じる。
彼女が好きな物や人だけを集めて編集している「Arne」は、ぼくが時折購入する数少ない雑誌である。
まったくと言っていいほどプライベートな情報の公開を拒絶してきた村上春樹の自宅を、多数の写真と共に詳しくレポートした号もあったりして、思わぬ発見をすることも多い。
最新号には糸井重里が「犬の約束。」という一文を寄稿している。
ぼくの生半可な知識によれば、犬というのは、自分たちのほうから、人間といっしょに生きようと近づいてきた動物だ。「こんにちは。いっしょにやっていきましょう」と、犬のほうから来たというのだ。
犬と人間は、うまく生きるために、いっしょにやっていきましょう、と話し合ってきた。いや、犬が人間のことばを話すわけじゃないけれど、おたがいに、なんかいいようにやりましょうと確かめあってきたんじゃないかと、そういう気がする。
そうそう、その通り。まったくもって、その通り。
彼女は黒ラブのだるまーと暮らしている。
だるまーとのてんやわんやの日々を綴った「大好きだるまー」は、著名人の愛犬本としてはぼくの一番のお気に入り。
あれこれ悩んだり、わははと大笑いしたり、犬がいる家庭はいずこも同じだなー、となんだかほんわかとした気分になれるのです。
投稿者 かえる : 23:29 | 本 | コメント (3) | トラックバック (0)
2005年3月12日
買ってはいけない!
書店には会社帰りに毎日立ち寄るのだが、最近はamazonを利用することも多くなった。
早ければ注文した翌日には配送されるのでびっくりする。
古本も並列でリストアップされるからユーザーとしてはすごく便利、これをやられたら一般の書店はたまらないだろうなぁ。
だが、タイトルや書評だけで購入することになるので時々失敗することもある。
今回は大、大、大失敗。
犬関連の本や雑誌には内容が薄いものも多いが、これほどひどいのは初めてだ.....!
以前に古本屋で「ペットフード研究会」なる名義で書かれたペットフードに関する本を見つけたことがある。注意して読めばアイムス社が自社の宣伝のために発行したものだとわかるのだが、あっちの方が100倍マシな内容だった。
「食べてはいけない! ペットフード大解剖 愛犬編」を、買ってはいけない!!!
投稿者 かえる : 01:32 | 本 | コメント (8) | トラックバック (0)
2005年3月4日
春の雪
早春の雪を見ると、三島由紀夫の豊饒の海シリーズ第一巻の「春の雪」を思い出す。
輪廻転生をモチーフとした壮大な恋物語で、ぼくはこの初巻が一番好きだ。
三島由紀夫は根拠のない先入観で読んだことがなかったのだが、ある時知人に勧められて読んでみたらとたんに好きになった。
計算され尽くした構成とゴージャスな文体。
昨夜から降り積もった、たぶんこの冬最後の雪。
これが溶ける頃には本格的に春到来、かな?!
投稿者 かえる : 09:28 | 本 | コメント (2) | トラックバック (0)
2005年2月27日
邂逅の森、動物記、を読んで
熊谷達也の直木賞受賞作「邂逅の森」と新堂冬樹の「動物記」を読んだ。
先日読んだ「いのちの食べかた」に、牛や豚を屠殺する際作業に当たる人々はなるべく苦痛を与えないように細心の注意を払う、とあった。
苦しませてしまった経験は、一生後悔するものだと。
「邂逅の森」は大正時代そして近代化する日本の中での一人の東北マタギの壮絶な一生を描いた傑作。
獣の命を殺めて生計を得るマタギ達の間での最大の屈辱もまた、獣たちの死に際して無用の苦痛を与えてしまうことだった。
命とは、自然と人間の関係とは、そして真実の愛とは?
人が獣と邂逅する時、人は何を失い何を得るのか?
骨太の素晴らしい文体と緻密な考証によって、ともすれば陳腐になりがちなテーマを圧倒的な迫力で描ききっている。
読了後、感動のあまり言葉を失った。
「動物記」は現代日本の「シートン動物記」とも言うべき作品。
魅力的とは言い難いが誠実な文章で、捨て犬や人間のエゴが動物を苦しめる不条理をていねいに訴えかけている。
子供の頃「狼王ロボ」が大好きだったぼくは、なんだか懐かしい胸の奥がきゅんとする不思議な追憶にひたったのです。
まあ、犬が出てくるだけできゅんとしちゃうんですけどね........
投稿者 かえる : 03:02 | 本 | コメント (10) | トラックバック (2)
2005年2月24日
いのちの食べかた、とお気に入りブログ
最近読んでおもしろかった本に森達也の「いのちの食べかた」というのがある。
ぼくはこの人のことを、好きな作家である田口ランディのエッセイで知った。彼の問題提起とその言説にはいつもハッとさせられる。
理論社が企画している中学生に向けたよりみちパン!セシリーズの一冊である。
たいていの人は肉を食べる。スーパーや肉屋で精肉を買う。
その肉はもともと一頭の牛や豚であることも知っている。
でも一頭の牛や豚がどのような作業を経て発泡スチロールのパックに入るのか、誰がそのような作業をしているのか、そこにはどのような歴史的背景があるのか、どこでその作業はおこなわれているのか、そんなことを具体的に知っている人はほとんどいない。
もちろんぼくもほとんど何も知らなかった。
この本では、と場で具体的にどうやって解体作業がされるのかを克明に描写し、その作業がなぜ「穢れ」という概念と結びついたかを歴史的にひもとき、「いのちを食べるということ」に触れ、やがて部落差別をはじめとする世界に存在するあらゆる差別やいつまでたっても無くならない戦争といった問題の本質へといきつく。
(そのような世界の様々な問題の報道に尻込みする)メディアの罪を自戒をこめて告発し、(しかし)その本当の犯人が誰なのかを暴いてみせる。
その犯人は誰か?
もちろん、君やぼく、大衆である。
でもこの本で一番重要だとぼくが思うのは、物事の見方について示唆している点だ。
誰かが体験した事実は、誰かに伝えられる時点で、すでに事実じゃない
物事に絶対的な事実や正確な描写は存在せず、様々な視点とそれによる多様な情報があるだけである、ということだろう。
当たり前のことだけど、忘れがちなことである。
ホリエモンが言うようにメディア(もちろん個人も、このサイトなんてその典型)の情報は常にバイアスがかかっている。
それは嘘ではないが、物事の真実を伝えているわけではない、ある見方を提示しているだけだ。
特定の人物やメディアの情報を鵜呑みにしたり信奉したりするのは、判断を誤る可能性が高く危険だ。
可能なら自分の目で見て、自分の頭で判断する、ことが大切だと繰り返し彼は訴える。
誰かの見解を疑えということではない、それも一つの物事の見方に過ぎない、という意識が大切なのだ、と。
もちろんそれでも「知る」ことが前提となる。
多様な情報に触れる必要があるわけです。
滅茶苦茶前置きが長くなってしまいました。今日はよくチェックしているブログの紹介がしたかっただけだったのに............
我々が自分ではなかなか経験することの出来ないプロフェッショナルな現場からの情報は、大変興味深くためになります。
獣医さんが運営するブログ
のまた犬猫病院
ペットポータル
ラブのブリーダーさんが運営するブログ
ATERUI LABRADORS
そうそうアリアママ、こっそりブログ始めたりしちゃだめじゃないかー!
派手にやらないと、派手に!!
ブログ開設おめでとね。
投稿者 かえる : 01:52 | 本 | コメント (2) | トラックバック (4)
2005年2月5日
人のセックスを笑うな
「人のセックスを笑うな」 山崎ナオコーラ
この小説の評には、"タイトルと内容が関係ない"という指摘が多いが、そんなことはないでしょ。
このタイトルはこの小説のほとんどすべてを表現している。
39歳のユリと19歳のオレの、恋に似た何か。
ひたすらせつなく、ひたすら恥ずかしい、何か。
もし神様がベッドを覗くことがあって、誰かがありきたりな動作で自分たちに酔っているのを見たとしても、きっと真剣にやっていることだろうから、笑わないでやって欲しい。
19歳のオレの熱情のばかばかしさやみっともなさを、小説は残酷に描写する。
ユリのたるんだ体や、風変わりな亭主や、何より真剣で青臭いオレの独白を通じて。
でも、笑っちゃいけないのである。
そもそもぼくたちの毎日なんて、そういったばかばかしい独りよがりの営みで成り立っているじゃないか。
人がとても大切にしているものやその思いは、たいていの場合他人から見ればちょっとした笑い話にしかすぎない。
真剣であれば真剣であるほど、滑稽に映るものである。
でも、笑わないでやって欲しい。
たぶんそういうことじゃないかなぁ。
息の長い人気作家になりそうな予感。
小説の「オレ」は北浦和に住んでるし、作者は埼玉県在住らしいから案外うちの近くでこの小説は生まれたのかもしれない。
山崎ナオコーラ、しかしすごいペンネームですね。コーラが好きだから、ってあなた.........
そうそう。
だから、散歩の時にぼくが犬に話しかけていても、笑わないでね。
投稿者 かえる : 03:18 | 本 | コメント (9) | トラックバック (7)
2005年1月21日
いま、会いにゆきます / バベルの犬 - 彼女たちの選択、ぼくらの選択
モーフィーに初めて会ったのは、鶴ヶ島のブリーダー宅だった。
黒ラブのメスというのがぼくたちの希望で、条件に合う子犬は2匹いた。
若干チョコがかった毛色の子は見るからに元気が良く尻尾をふりながらじゃれついてくる、鼻先に彼女とのじゃれ合いで作った傷がある真っ黒い方の子は、奥さんにしがみついたままなかなかこちらに来ようとしない。
気の弱そうな彼女の方を、ぼくは選んだ。
もしも、もしもその先に経験することになる様々な苦労やその後に得る強い絆を、いくつものやさしい思い出やそれ故の別れの耐えがたさを、その時確かに知っていたとするならば、ぼくはそれでも彼女との生活を、他の動物や他の犬ではなく彼女を、選んでいただろうか?
あるいはあなたは、あなたの大切な誰かを選んでいただろうか?
彼もしくは彼女が連れてくるあなたの未来を、あなたは選ぶだろうか?
たとえその選択に、耐えきれないほどの辛い結末があらかじめ約束されていたとしても......?
「バベルの犬」キャロリン・パークハースト
大学教授ポールの最愛の妻レクシーが、彼の留守中に庭のリンゴの木から落ちて死んだ。
警察は事故死と判定した。
事故死? わざわざリンゴの木に登る理由なんて思いつかない。
自殺? キッチンには死の直前にステーキを焼いた形跡がある。
それに自殺する理由なんてない、二人は誰よりも深く愛し合っていたのだから。
その瞬間すべてを目撃していたのは、ローデシアン・リッジバックのローレライだけ。
あなたならどうしますか?
彼は、真実を知るためにローレライ(犬ですよ)が言葉を話せるようになるよう、訓練を開始するのである。ウソだろ、おい!という感じの導入で小説は始まる。
彼は、彼と彼女の出会いから彼女の死までの出来事を、訓練の合間にひとつづつ思い出していく。
しかし、彼女が死の直前に一つの大きな選択をしていたことを、彼は知らない。
その選択とは...?
「いま、会いにゆきます」市川拓司
あまりにも有名になったこのいささか感傷的に過ぎる小説のテーマも、やはり「選択」ではないか。
小説のヒロイン澪は、ある夏の日ある重大な選択をしてある人々に、会いにゆく。
六月のやさしい雨、森の中の廃屋、エンデの「モモ」、死んだ人間が暮らす星・アーカイブ星、誰よりも愛し誰よりも愛してくれた美しい妻とその想い出、忘れ形見となった彼らの息子。
これで泣かなかったら人間じゃない、と言わんばかりの道具立てでずるいことこの上ない。
しかし、心をゆさぶる小説とはたいていずるいものなのです。
重要な登場人物(といってもこの小説の登場人物は片手で足りる)に、妹の看護に一生のほとんどを費やして抜け殻のようになったノンブル先生とその飼い犬プーがいる。
小説の後半でノンブル先生は病に倒れて入院し、飼い主を失ったプーは路頭に迷うことになり結局は失踪し行方がわからなくなってしまう。以前の飼い主の元で声帯除去手術を受けたプーは声を失っているのだが、ノンブル先生と暮らした家を離れる時に、風のような声にならない叫び声をあげる。
終始主人公とその失われた妻を中心に語られるこの物語の中で、このエピソードだけが妙に不自然に挿入されている。そのことには、きっとなにか意味があるのであろう。
この二つの小説のヒロイン達は、いずれも重大で決定的な人生の選択を行う。
そしてそれは生きることを意味し、同時にまた死を意味する選択であったのだ。
ぼくたちは、その決意の意味する勇気と愛、そしてその選択に秘められた不思議な必然性に激しく心を打たれる。
言うまでもなく、我々も日々何かを選択して生きている。
好むと好まざるとにかかわらず、意識的にせよ無意識にせよ。
結局のところ、ぼくたちは誰も彼も
自分にしか成し得ない、自分にのみ価値のある、自分にとって必然的な、
「選択」を行いながら自らの日々を生きていくしか出来ないということなのだろう。
時々、声にならない叫び声をあげながら。
なんちゃって。
妻の呼ぶ声がする(これもまた一つの選択の結果だ)。
どうやら夕食の準備が出来たようだ。
いま、食べにゆきます
なんちゃって。。。
投稿者 かえる : 23:00 | 本 | コメント (4) | トラックバック (1)
2005年1月15日
岡崎京子、絲山秋子、袋小路の男、ブンガクの逆襲
岡崎京子の漫画が好きです。
リバーズエッジ、pink、etc.etc.
彼女が世に出た時、コミックは文学を越えた、と言われた。
確かに。はるかに越えていた、と思う。
もう日本のブンガクは死んだかに思えた。
村上春樹と村上龍だけが孤独な戦いを続けていた。
しかーし、最近ブンガクの逆襲が始まっているようなのだ。
新しいipod shuffle欲しいなあ、とか言ってる場合じゃないのである。
欲しいけど。。。
ともかく、いつのまにか日本の書店には、とても読み切れないほどのおんもしろい本が山積みになっている。
ビジュアル系の綿矢ちゃんから、不思議ちゃん系川上弘美、角田光代(祝直木賞受賞!!)、吉田修一、女性作家を中心に若手・中堅の台頭が著しい。
言うまでもなく、日本のミステリー小説はもはや世界屈指のレベルである。
それに、ありとあらゆる古典的名作はBOOK OFFでわずか100円で買える。
何ともありがたい時代になった。PSPとかやってる場合じゃないのである。
いや、ホントに。
今年ブレイクするであろう作家の筆頭は絲山秋子に勝手に決定!
心の奥底に易々と侵入してくる不思議な文体が好きです。
ホームページを覗いたら想像していた通りの人のように思えて、なんだか嬉しくなった。
デビュー作「イッツ・オンリー・トーク」収録の「第七障害」、自身の乗馬ミスにより愛馬を安楽死させる結果となった過去に悩む主人公の女性が、ラストで再生のきっかけをつかむ場所は群馬の野反湖。
この世の終わりのような、世界の始まりのような、あまりにも美しい場所です。
この湖畔に一人でキャンプに行った時は、あまりの美しさとあまりの寒さに死ぬかと思いましたよ。
この湖を重要なモチーフに選んだということで、ますますこの作家が好きになりました。
袋小路にある家に住む、人生の袋小路に追いつめられた男と彼を一途に思い続ける女の物語、「袋小路の男」はせつなーい純愛短編集、今すぐ買うべし。
本って、ベストセラーになるとなぜだか恥ずかしくて買いづらくなるから。
でも、あれって何でだろう?
流行の映画に並んでも別に恥ずかしいとは感じないのに....
(ぼくは「いま、会いにゆきます」が今さら書店で買えなくて、amazonで先日やっと購入しました。。。)
絲山秋子の次作は2/25発売で、今から楽しみにしている。
タイトルは「逃亡くそたわけ」。
セカチュー風に略すると「トークソ」。
ありえねぇー!
コーラが好きだから付けたというペンネーム「山崎ナオコーラ」と同じくらい、ありえねぇー!!
あー、でも早く読みたい!!!
投稿者 かえる : 01:37 | 本 | コメント (0) | トラックバック (2)
2005年1月5日
Say Hello! 〜あのこによろしく。
くもりがちの日がつづいたある夏のこと。
ジャック・ラッセル・テリアのルーシーのおなかに
いくつかのちいさないのちがめばえていました。
これは、ルーシーとそのこどもたちの、
ちいさなちいさなものがたりです。
長年待ちわびた原りょうの新作をやっと読み終わった。
途中まで読んだところで仕事が忙しくなり、すっかり話がわからなくなってしまったのでそのままになっていたのだ。
そして会社帰りに毎日立ち寄る本屋で、この本を手に取った。
Say Hello! あのこによろしく。
糸井重里氏の前書きがこの物語の魅力のすべてを表しているので以下引用します。
この本は、出会いと別れの本です。
この本は、おかあさんの本です。
この本は、赤ちゃんの本です。
この本は、家族の本です、ともだちの本です。
遊びの本です。眠りの本です。
生と死の本です。笑いの本です。愛の本です。
なにかいやなことがあって、
苦虫をかみつぶしたような顔をしていた人でも、
この本のページをめくっているうちに、
「生きるって、わるくないね」と、
ついつい思ってしまう本です。
そういう魔法がこめられた本なのです。
この人が釣りに凝っている頃、「釣りはナンパである」と看破しているのを知って「なんてまっすぐに真実を見抜く人なんだろう」と感心した。
感動のあまり、ほぼ日の買い物バッグをネット注文しちゃった(現在も愛用中)くらいである。
それはともかく、この本はじつに「わるくない」一冊です。
犬なんてまったく興味がない人がページをめくっても、きっとなにかとても大切なことを思い出して「うんうん」とうなずくであろう。
ましてや、手塩にかけて育てた最愛の子犬を最近新たな飼い主の元へ送り出したらしいべっくママあたりが読んだりしたら、号泣間違いなしなんだから。
最後に、この本の著者であり無数の愛情あふれる素敵な写真を撮りまくったイワサキユキオ氏からのメッセージを。
いま、あなたのそばにいる、
かつて、あなたのそばにいてくれた、
もしかしたら、あなたのココロのなかにいるかもしれない、
あのこに、よろしく。
ぼくからも、よろしく。
投稿者 かえる : 22:08 | 本 | コメント (0) | トラックバック (1)